なぜ社会から意味が喪われたのか。

私たちは、意味が不在となった社会に生きている。
では、なぜ、意味は喪われてしまったか。

 

意味の不在は、

第一に「実感の不在」である。

社会に増え続ける情報は、記号処理を促した。
実感・体感ではなく、記号として処理することで、スピーディーに物事が処理できる。

また、理性は感情に比べて高い地位に置かれた。
実際には、感情とそして利害の奴隷であるのに、わたしたちは。

 

第二に「貢献の不在」である。

人々はindi-vidualとして分断された。
人々は別々に住まうようになり、さらに住まいは個室に分断される。

コミュニティの崩壊・家族の崩壊のはじまりである。
帰属すべき場所の不在が、貢献の対象を奪う。

ヒトは、貢献によっても意味を感じる生き物である。

また、社会がネットワーク化され、複雑化されたことも、その一因になる。
社会の中で、人々は役割に分断化され、責任は分散され、
そうしてオーナーシップが不在になった。

 

第三に「効率化」である。

中でも、「効率化が意味を持つ、生物学的限界に達した」ことである。
科学技術の発展は粋を極めた。

多くの領域では既存の価値に「改善」を行ったところで、
意味を持たない地点に至っている。

例えば、網膜の解像度を超えるディスプレイ。
人が制御できない馬力のオートバイ。

改善や効率化の先に、最早、意味を見いだせなくなった。
新しい価値の提示こそが求められている。
また、効率を上げるために行なってきたことがもう一つ。
それが均質化(そして標準化)である。
例えば学校給食では、パンと牛乳という同じものを
効率よく大量に日本中に流した。
その中では地域・土地の食文化はないがしろにされてきた。

けれど、大量生産・大量消費では、満腹にはなっても、満足はしないことが明らかになった。
もとより、地球の資源・自然環境も大量生産・大量消費を無限に支えられるわけはない。

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